2010年07月14日

珣珣餃子(しゅんしゅんぎょうざ)


 コザの街に飲食店が増えてきたと最近、実感している。
 そのなかで私がよく通っているのが“珣珣餃子”という中華料理店である。(沖縄市中央1-2-3、琉球銀行コザ支店裏 TEL939-5338)
 中国黒竜江省出身の肖国義さんが店長。中華料理というと油と塩がたっぷり入ったこってりした味を連想するが、珣珣餃子は一味違う。ほんのりとした塩味と香辛料でさわやかな食後感がある。一度行くとまた行きたくなってくる店である。
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2010年05月10日

古本屋めぐり

 時間のある時には「古本屋めぐり」が楽しみのひとつになってきた。琉球の歴史で疑問点を持ったらいろんな本にあたってみる。
 宜野湾のBooksじのん、榕樹書林、コザすばる書房などに行っている。
 最近知ったのが、徳田昌宏氏の経営する「沖縄の本愛好会」という古本屋である。うるま市安慶名の交差点より歩くこと5分、民家に所狭しと琉球・沖縄の本が並べられている。街の本屋が次々になくなっている今日、沖縄にこだわりを持ち、大量の本を確保していることに感激した。
 電話 972―2677
 携帯 090-1362-8651
    080-3952-3672
5月の連休中も対応してくれた徳田氏に深く感謝する。
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2010年03月09日

おきなわマラソン初参加

 初参加といってもランナーではなく、救護班の一員としての参加です。35kmの救護ポイントで待機しました。
 沿道で声援を送っていました。出発して4時間半をこえるころから、ふくらはぎ、大腿部の痛みを訴えるランナーが続出。鎮痛剤のスプレーが役立ちました。
 意識障害など重症者の発生がなく、ほっとしました。
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2009年11月11日

ペル ―料理の店がオープン

 パークアベニュー郵便局の通りにティティカカというペル―料理のレストランができました。
 ティティカカとはぺル―とボリビアにまたがる世界でもっとも高い所にある湖(標高3800メートル)のことです。
 ボリビア生まれのウチナーンチュ、ルイス ヒガさんがオーナーです。
 店内では南米帰りのウチナーンチュのスペイン語が飛びかっており、南米の雰囲気が楽しめました。
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2009年08月31日

南の島のフリムンを見て

 ゴリ主演、監督のこっけいな映画だった。
パークアベニュー、ゲート通りが舞台になって物語が展開されている。身近な風景が新たな切り口で描かれていておもしろい。
 アメリカ人ダンサーをめぐってゴリと黒人が安慶名の闘牛場で決闘することになるが、おもしろいからやってみろとダンスホールのマダムがウチナー口で語るのは迫力がある。
 ゴリの決闘のために武術の達人(平良とみさん)が登場。奇想天外な訓練の成果で、ゴリが勝利したのには思わず笑いがこみあげてきた。
 この映画をみて、ロケ地のコザを訪れる観光客が多くなることだろう。

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2009年07月29日

立小便と呪い

 
 スティービーさんの薄笑ブログに笑ってしまった。立小便をすると宝物が使えなくなるぞと呪いをこめた張り紙がコザの街にあるとのことだ。
 そこで排尿について考えてみた。欧米人は排尿をコントロールできない人は犬や猫と同じだとみなすという。だからベッド上で排尿させるのは人間の尊厳に反するとして、トイレまで行かせるように介護施設では手厚い人員配置をするという。
 欧米でこのようになったのは、深い反省があったからに違いない。江戸の人口が百万人といわれた時に江戸の街は清潔であったが、当時のパリの通りはフン尿にまみれていた。家の中にトイレがなく、通りにぶちまけていたのだ。ハイヒールはフン尿から衣服を守るために生まれたという話もある。
 排尿は交感神経と副交感神経の微妙なバランスで調節されているが、例の呪いはこのバランスにも働きかけているかもしれない。くわばら、くわばら。
 スティービーさんの案内で、張り紙を見に行きたいものだ。
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2009年05月27日

ラジオは脳にきく

RBCiラジオで和宇慶さんが話をすることになりました。これまで蓄積してきた沖縄の情報を楽しく語ってくれるものと期待しています。
 そこで、ラジオの効能について考えてみました。「ラジオは脳にきく」という和歌山県立医科大学の脳神経外科教授、板倉徹先生の本が参考になります。以下はその要約です。

 なぜ、ラジオが脳にとっていいのでしょうか?
 それは映像による情報がなく、音声情報しか脳に届かないため、想像という作業が働いてくるからです。ここでいう想像とは、記憶の貯蔵庫から関連情報を引き出し、脳全体を活性化し、情景を組みたてていくことなのです。
 ラジオはテレビと違って視覚情報がなく、情報量が少ないのです。そのため正確な情報を得るために「集中力」が鍛えられます。
 また一方では、ラジオを聴きながらほかの作業ができるという利点があります。同時に2つの事を行うことで脳が活性化されます。
 どのようなラジオ番組が脳にいいのでしょうか?
① ニュース、ラジオドラマ、トーク番組など
② スポーツ中継
③ 音楽番組

 和宇慶さんのはトーク番組です。
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2009年04月29日

銀天街にデイサービスがオープン

 4月29日(水)、銀天街でデイサービスの開所を祝うパーティが開催されました。
5月1日(金)より営業開始とのことです。
 デイサービスの建物は銀天街本町通りのまん中にあります。デイサービスは高齢化社会において
地域で多くの需要があると思います。
 私は銀天祭りにはユンタクのために参加していますが、毎月祭りを継続していることがデイサービスを呼びこむための大きな力になっているだろう、と歌、三線、踊りを見ながら実感しました。
 これを契機に銀天街に新たな人の流れが生まれ、商店街が活気づくことを期待しています。
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2009年03月23日

第23回倉敷音楽祭に参加して

 倉敷は江戸時代の家並みを今に残す整然とした美観地区が魅力的で、多くの観光客でにぎわっていました。
 沖縄と10度もの温度差のある静寂な空気がエイサーの熱波で一変するような感じでした。
 サーターアンダギー、ソーミンちゃんぷるー、沖縄ソバの店の前には長蛇の列ができ、そして、「完売」という朱色の文字がさん然と輝きました。
 交流コーナーでは、沖縄の文化に関心のある方や県人会の面々がみえて、有意義な「ユンタク」となりました。
 音楽祭は多くの観客が訪れ、大成功だったと思います。このようなイベントを体験する機会を与えて下さった関係の方々に感謝致します。
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2009年02月16日

記念誌発刊


 2007年に中国福建省に墓参に出かけたことを記念する本を出版しました。2月16日の沖縄タイムス夕刊に記事がのっています。
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2009年01月23日

祝賀会

1月22日(木)、町田まりさんと森口康秀さんの結婚を祝うパーティーがコザクラで開かれました。

  御結婚おめでとうございます。
  イイ ニービチ デービル。
Congratulations on your marriage,Mari and Mori!
  祝賀結婚。
  キョルホン、チューカ ハムニダ(韓国語)。
  シャディー キ バダイホー(ヒンディー語)。
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2009年01月06日

インド人の智恵

 認知症の検査法として日本で広く用いられているものに長谷川式簡易知能評価がある。
そのなかに、100から7を順番に引いてください、というのがある。93-7でつまづく認知症の人は多い。
 そこで、私は患者さんにインド人の智恵について話をすることにしている。-7というのは、-10+3だと頭をきりかえたらよい。93から7を直接ひこうと無理をせず、まず10をひいて、あとで3を足すという楽な方法をとってみたらどうか。86という数字が自然にでてくるのではないだろうか。
 こういったことをインド人は日常的にやっている。引き算を簡単な足し算に変換する方法である。マイナスをプラスに転化するポジティブ思考とは具体的にこういうことなのかと感心させられる。
 最近、パークアベニューにあるインド屋のビクター氏とインド式計算法について話しあった。2桁の掛け算なども、マジックのような方法があって興味はつきない。
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2008年12月22日

宮国チーム初優勝


 12月20日、第一回オール沖縄囲碁団体戦で宮国利一六段の率いる「あさひ運転代行チーム」(沖縄市)が優勝しました。
 宮国六段は、コザの銀天街で子どもたちに囲碁を教えています。この優勝が銀天街の子どもたちにも大きな励みになることでしょう。
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2008年12月03日

2298とかけて

 12月1日、コザの銀天街にアジア屋台料理の店がオープンしました。香辛料の使い方は絶妙で、さすが徐慧(シュウ・フイ)店長だと思いました。
 何と店の名前は「2298」です。「ニンニクヤ」とのことですが、そこには中国人の智慧が隠されているような気がしました。中国語で、9は「チュー」、8は「バー」です。98はチューバーで、漢字をあてはめると「酒吧」になります。これは酒場のことです。銀店街では居酒屋談義がますます盛んになることでしょう。
 ウチナーグチで「2298」を読むと「フーフチューバー」とも読めます。ウチナーグチで「チューバー」は「強い者」という意味です。北京から強い夫婦がやってきて、銀店街を盛り上げる、と解きました。
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2008年11月24日

ワナキオとチャンプルー

 ワナキオ(Wanakio)という芸術家の集団がある。オキナワ(Okinawa)を並びかえて集団の代表名としたものである。コザの銀天街でフォーラムがあった。オキナワ(Okinawa)がワナキオ(Wanakio)になるのに、さまざまな議論があったことを聞いた。
 そこで、アナグラム(Anagram)という遊びのことを思い出した。文字を並びかえて言葉を作る遊びである。創造とは無から有を作り出すのではなく、既存の要素から新しい組み合わせを作り出すことだと言われている。
 ウチナーグチで言えば、チャンプルーのことになるであろう。いろいろな素材を組み合わせ、それぞれの特性を失うことなく新しい味を作るのである。
 オキナワから生まれたワナキオの活躍を期待している。

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2008年11月07日

越来グスク

 11月6日、沖縄市城前公民館で亀島靖先生の「越来グスクを語る」という講演を聴きました。
 沖縄では学校で琉球の歴史を教える時間が少なく、自らのアイデンティティを確立できず自信喪失に陥ることがある。そこで、地元の歴史を深く知っていけば自信が湧いてくる、と亀島先生は熱く語っていました。
 越来にどうして城があったのかということから話が展開されていきました。1450年代という緊張感の高い時期に思いをはせてみましょう。尚泰久、阿麻和利、護佐丸、鬼大城といった武将が活躍していた頃です。
 沖縄の地図を見てみましょう。平野部で、本島を横断する線としては、残波岬と勝連半島を結ぶ距離が最も長くなっています。この線の中央が中山の越来であり、当時の琉球で最も盛えていた農耕地帯です。
 中山は城の多いところで、越来城の他に勝連城、中城城、座喜味城があります。越来城は、3146坪あり、沖縄で城の大きさではベストテンに入っています。越来城は交通の要所にあり、各武将を監視する重要な役割があったため国王の息子達が派遣されていました。
 尚巴志の第七男の尚泰久は青年時代、越来城で過ごし、首里に上がってあと、現代にも通用する「万国津梁」という国策を実行しています。
 越来城で尚泰久は、後に、第二尚氏の創設者となる金丸を部下として採用しています。また、阿麻和利の妻となった尚泰久の娘、百度踏揚は越来城で生まれています。
 越来の地は、いろいろな勢力がしのぎを削る場であったのです。講演を聴き、パワーをもらったような気がしました。
Posted by 漫遊国 at 17:20 | Comments(0) | TrackBack(0) | コザの街にて

2008年10月22日

ウチナー芝居

 10月19日(日)、浦添市てだこホールにザ・フェーレーVS劇団「うない」の公演を見に行きました。
 フェーレーとは、ウチナーグチで「追いはぎ」のことです。四人組のおじさんたちが軽快に歌って踊っていました。「ギター、ピアノ、くんぐとおるくとおちしてサンサンサン。やしがなまからースン」(ギター、ピアノ、このようなことは決してしない。だけど今からはやる)。サン(しない)とスン(する)のリズムに爆笑の渦が湧きおこりました。
 「うない」とは、女の兄弟のことです。劇団「うない」は女だけの劇団で、かの有名な乙姫劇団の伝統を受け継いでいます。
 沖縄市在住の波夕子さんが主役でした。花街の遊女の切なさがよく表現されていると感じました。
 昔、コザ市嘉間良に劇場があり、祖母に連れて行ってもらったことを思い出しました。
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2008年10月06日

建設の息吹

 パークアベニューでアメリカのピザ家屋(ピザカヤ)が建設中である。オーナーはスティーブさんで、沖縄在住20数年とのことで日本語もうまい。もともと溶接工だったので建設工事はお手のもの。毎日12時間ほど内装工事をしている。アメリカのカントリーハウスのような木目調の店が徐々にその姿をあらわしてきた。
 居酒屋にひっかけたピザカヤというあたりユーモアのセンスもある。パークアベニューの名店になるだろうと期待している。
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2008年09月20日

 待ち人来たる

 10月に北京から来られる近藤夫婦が銀天街で串焼の店を開くとのことです。奥さんは中国人で日本語が話せず、夫婦間の共通語は英語です。
 そこで、銀天街の仲田青年部長から御夫婦を歓迎するウチナーグチを中国語に翻訳してくれとの依頼があり、以下のように翻訳してみました。
 

 請你們尽量快点儿来。
 我們已経等不及了。
 為了讓沖縄成為你們的第二故郷、
 咱們一起加油吧!
Posted by 漫遊国 at 11:04 | Comments(4) | TrackBack(0)

2008年09月05日

私の中国語

 沖縄県医師会報8月号に「私の中国語」が掲載されました。なぜ中国語を学んだのかなどを書いてあります。
 詳細は以下をお読みください。

私の中国語

源河医院院長 源河 茂

コザの一番街から路地に入ったところに台湾料理店「凱莎琳(キャサリン)」がある。毎月 20 日になると、この店で私は中国語を話すメンバーと会話を楽しんでいる。

中国語を話しはじめたのは、22 年前のことだった。大学の医局に台湾の高雄から留学してきた脳外科医、孫楨民先生とつきあったのが中国語を学ぶきっかけとなった。

当時、私は腫瘍グループに属しており、実験と治療成績の調査で忙しかった。脳腫瘍細胞を培養して抗癌剤を投与し、フローサイトメーターという機械で細胞周期を解析していた。また、悪性脳腫瘍に対する化学放射線療法の効果を検討していた。コンピューターソフトを開発して患者のデーターを入力し、生存率を計算していたのである。

そんなある日、医局に行くと孫先生が一人イスに座ってボーとしていた。どうしたのかと尋ねてみると、留学はしたものの、見学ばかりでエネルギーが余ってしょうがないと言う。猫の手も借りたかった私は、「じゃあ、一緒に脳腫瘍の統計の仕事をしよう」と誘った。

それからというもの、夜の12 時頃まで二人で病歴室にこもって、カルテを調べてデーターを入力する日々が続いた。孫先生は日本語が話せないので、英語で意思疎通をはかっていた。

ところが、ある日、私の脳裏をひとつの疑問がよぎった。アジアの若者同士がこのまま英語で話をしていていいのだろうか?そこで、頭を切り替えた。いい機会だから、いっそのこと中国語を教わってしゃべってみようと思ったのである。まずはじめに、finish を中国語で何と言うのかと聞いてみると、完了(ワンラ)というと教わった。そして、英語と中国語の混ざりあった奇妙な会話が始まった。たとえば、「私、行く、あした、大学に」といったような語順もリズムも正しくない中国語である。彼は「私の中国語」を聞くなり、大声で笑いながら答えた。中国語はflexible(柔軟)だから言いたいことは百パーセントわかると。これに気を良くした私は、ああだこうだとしゃべっていった。時々、孫先生が正しい中国語に直してくれた。そうしているうちに語順もリズムも正しくなっていったような気がする。

中国語と英語の飛びかう入力、計算の日々の結果、乏突起神経膠腫の生存率に関する解析ができた。これを孫先生が論文にまとめ米国の雑誌Neurosurgery に投稿したところ、めでたく受諾されて祝杯をあげたのは、楽しい思い出である。

その後、私は大学からの派遣で、北京の中日友好医院で共同研究をする機会が与えられた。孫先生の指導のおかげで、中国人との会話を楽しむことができた。ところが、ある看護師に「あなたは中国語がうまい。だけど南方の老人のようななまりがあるねー」と言われてしまった。その時、私はからかわれたような気がしたが、「今の中国の指導者は鄧小平だ。彼だって南方の老人じゃないか」と自分を慰め、その後も中国語会話を楽しんだ。

北京出張後、留学の機会を得た米国でも帰国してからも孫先生とは中国語で手紙のやりとりをしていた。しかし、しだいに二人とも臨床の仕事で多忙になり、文通がいつしかとだえていた。

2004 年に開業した後、久しぶりに孫先生に挨拶状を出した。すると本人ではなく、同僚から手紙が来た。「他不在人間」と記されていた。彼は5 年前に交通事故で亡くなり、もはやこの世の人ではなく、人の間(世間)にはいないということであった。

中国語はflexible と「私の中国語」を励ましてくれた孫先生のご冥福を祈っている。
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